ASAメールvol198 2022年3月16日 ②
毎年3月発行のASAメールでは、福島県出身のスタッフも居ることから、東日本大震災にまつわる内容を掲載しています。
11年経った今年は学生ライター部に、震災についてそれぞれ書いてもらいました。
「消えない記憶と想い」I・U
2011年3月11日に起こった出来事を皆さんは覚えているでしょうか。私はあの時、小学校三年生で三重県に住んでいました。そのため被害等は特にありませんでしたが、家に帰ったら濁流の押し寄せる映像がテレビに映っていたことを鮮明に覚えています。これは、何だろうと思いながらただただ恐怖していました。その日以降、テレビをつけても地震の被害や津波の映像が続き、CMはずっと同じものが流れていて、早く元に戻ればいいのにと思っていました。もう、いいえ、まだ11年前のことです。
私はこの記事を書くにあたって「悲愛-あの日のあなたへ手紙をつづる-」という本を読みました。この本には亡くなった人たち、動物たち、消えた故郷への行き場のない想いを綴った生身の言葉が閉じ込められています。今、生きている私たちは言葉が伝わることを当たり前のアイデンティティーだと思っていますが、それは当たり前ではないことを痛感しました。そして、あの大災害の中で、人々の命を懸命につなごうとした人たちがたくさんいたことも知りました。コロナ禍である今のように見ず知らずの人たちの命をつないだ人たち。尊い行動の末に亡くなった人もいます。
私たちはもうすぐ南海トラフ地震など大地震の被害を受けるでしょう。皆さんはきちんと災害に対する備えはしているでしょうか。避難場所への道のりもばっちりでしょうか。この記事を読んで、ぜひ一度確認してほしいです。また、もし誰かに対してもやもやしていることがあればこの機会に言ってみてもいいかもしれません。
最後になりますが、東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申しあげます。被害に遭われた方々の傷が少しでも癒えることを切に願っています。
「新潟県中越地震を経験して」K・S
東日本大震災のあの日、私は卒業を間近にひかえた小学6年生でした。校舎ごと揺れる机になんとか身を隠しながら、私はさらに7年前の出来事を思い返していたのでした。2004(平成16)年10月23日、新潟県中越地震です。以前ASAメールでも紹介させていただきましたが、その当時私は新潟県長岡市に住み、最大震度6弱を経験しました。東日本大震災で被災された方々に比べれば被害はわずかではありましたが、自分自身大地震を経験し、避難生活を味わった身だからこそ、地震の恐ろしさや防災の大切さを実感しています。まだ幼稚園児と幼く、記憶も若干薄れている部分があったので、当時私のそばにいてくれた母にそのときのことを詳しく聞き、それを記事にしたためることにしました。
その当時、母は私の弟にあたる次男を妊娠していました。切迫流産の状態であり、入院が必要とも言われていました。母は生まれつき心臓病を患っており、出産時に大きなリスクを伴うため、出産は私のときと同様に、母の心臓病の手術も行った都内の大きな病院を予定していました。当然入院もその病院ということになるのですが、私がその当時幼稚園に通園しており、とても一人にできる状態ではなかったため、母は入院せず、自宅で安静にしていることを条件に、長岡に残ることにしたそうです。
地震が発生したのは、17時56分。ちょうど母の元に来客であるご婦人が訪れていました。誰かが来ているときの私は大抵、おとなしく一人でテレビを見ていたようですが、この日ばかりはなぜか母の元を離れず、腕にしがみついていたようです。大きな地鳴りの音とともにマンションが縦に揺れ、食器棚や本棚が一斉に崩れました。ある程度揺れが収まったところで、マンションを出ることにしました。このとき、「泥棒の危険性もあるから鍵は閉めた方がいい」など、ご婦人が冷静に助言してくれ、母は非常に助かったと語っています。エレベーターは動きを停止してしまったため、私たちは非常階段で降りました。安静にしていなければならない母の身体にはかなりの負担だったようですが、なんとか1階の駐車場まで降りてきました。
駐車場には私たちと同様に、多くのマンションの住人たちが集まっていました。程なくして向かいのマンションの電気が突然消えました。市のアラームがそこかしこから聞こえてきます。その異様な光景が母に大きな不安感をもたらしたといいます。誰もが経験したことのない恐怖に震える中、幼き私はこのようにつぶやきました。「ねえ、今日のドラえもんスペシャルは、見れないの……?」どうやらとても楽しみにしていたドラえもんの特番の放送日だったようです。今考えれば到底それどころではなかったわけですが、その一声に母もご婦人も、そして周りの人々も一気に緊張感がほぐれたそうです。
その日は学校の体育館で一晩を過ごすことになりました。マンションに残った方も多いようですが、母も非常階段で登ろうとしたところ、身体に大きな負荷がかかってしまいました。母子ともにリスクが大きいということで、マンションに残ることは諦めました。体育館での生活は一晩限りとなりましたが、マンションのエレベーターが復旧するまでは戻ることができないため、母と私は一週間ほどの避難生活を強いられました。
エレベーターが復旧し、マンションに帰宅してからは、だんだんと日常の生活を取り戻していったようです。その後父親の転勤の影響で関東に引っ越し、そこで家を建てることになるのですが、この経験から我が家では地震への対策を入念に行うようになりました。家具は基本的に造り付けにして倒れないようにする、食器棚は揺れを確認したときにロックがかかるように設計してあるなど、建築段階から耐震設計の家を指定したようです。地震が発生したときの避難行動も冷静に行えるようになり、東日本大震災のときには、無事に生まれすくすくと育ち、幼稚園児となった弟の友達が家に来ていたようですが、その子たちも引き連れて、冷静に家を出て避難できたといいます。防災対策は、実際に経験しないとなかなか考えつかないことが多いかもしれません。そういう場合は、東日本大震災に限らず、あらゆる地震の被災者の声に耳を傾けるのがいいかもしれません。地震はいつ起こるか誰にも分かりません。私もこの被災経験をもとに、日頃から防災意識を高めていきたいと思っています。
「大災害で自分にできること」A・Y
参考文献
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「最新 社会福祉士養成講座・精神保健福祉士養成講座6地域福祉と包括的支援体制」 第6章p204〜
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