ASAメール vol189 読者のページ 投稿㊸

読者様から20代の若者のコロナに対する考え方を取材してほしいという投稿がありました。
一人一人、環境や状況が違い、それぞれ考えを持っています。
中には絶対に感染できないという強い意志を持っている人もいます。
自粛要請中で取材が中々困難な為、6人の学生ライター部に意見や考え方を書いて貰いました。

●学生ライターの皆様に大学生をはじめとする20代の若者のコロナに対する考え方等を取材してほしい。20代の感染者が日に日に増えている点。※国や都などからの「外出自粛」等の呼び掛けをどのように捉えているか…。  (横川町K様)



〇私は、祖父母と同居しています。流行が拡大した当初から重症化リスクが高いと言われてきている高齢者(最近は若者でも後遺症に悩まされるなどありますが)と同居しているので、細心の対策を心がけています。若者といっても千差万別だと思います。「若者」という言葉で伝えた方が、政府としてわかりやすくメッセージを発信できるという面があるかもしれませんが。
 



〇私の家には、自閉症の兄と心臓病を持つ父がいます。もし私が感染してしまったら、家庭が一気に大変な状況となるので、感染対策には常に細心の注意を払っています。最近は、運よく感染せずに遊んでいる者勝ち、真面目に外出自粛した者損という風潮があるように感じます。






〇コロナを終息させるために、外出自粛は必要なことだと思います。一方で、1人暮らしの学生は孤独に陥りやすいと思います。私自身、八王子で1人暮らしをしているのですが、昨年は人と会えず、とても孤独に感じました。その経験から、現在は、家での時間を充実させるべく、オンラインでのボランティア活動や、ベランダでミニトマトを育てるなどして1人の時間を楽しんでいます。コロナ禍の今だからこそ、生活にちょっとした工夫を凝らしながら、この難局を乗り越えていきたいと考えています。



〇大学生を中心とした若者のコロナの捉え方は正直、軽く考える人とそうでない人の落差が大きい。「自粛ガチ勢」なんて言うほどに自粛を軽んじる人も中にはいる。私は実際に陽性の診断を受けて思うのは、自粛はどれだけしてもやりすぎではないということだ。自分の体が辛いのはもちろんだが、それだけでなく家族や友達、バイト先に移してしまう不安のほうが大きかった。中には無症状で感染している人もいる。20代の青春は今しかないという気持ちはすごくわかるが、今少しの辛抱で長い青春につなげてほしいと感じている。


〇私はショッピングモールのバイトで感染対策を徹底して行っているのですが、宣言中でも多くの人が押し寄せ、宣言の意味とは…?と考えてしまいます。同時に、多くの人が来店しなければ経営が成り立たないという面も理解でき、ジレンマに陥っています。
 



〇読者様から20代の若者のコロナに対する考え方を伺いたいとのご要望をいただきましたので、大学院で哲学を専修している私から、自分なりの見解を述べさせていただきます。

 まず、行政などから外出を控えるよう要請が出ているにもかかわらず、若者の感染者数がなかなか減少しない点について、私は若者(に限らないとも思いますが)が自分個人の欲求充足を重視するあまり、感染状況の拡大を軽んじている傾向にあるのではないかと分析しています。言葉を選ばずに言えば、私はこの考えに、部分的にはいたしかたないと考えているのも事実です。というのも、行動選択において自らの利益となるものを選ぶというのは、合理的な存在であるならば至極真っ当なことだからです。

 しかし、このような外出して感染のリスクを拡大させるような行為が、本当に最善の選択なのかという問題については一考の余地があると思っています。ここで重要なのは、利己主義と個人主義をはき違えてはならないということです。

 利己主義とは通常、自分の利益を最優先し、他人や社会全般の利害などを考えようともしない立場のことを言うでしょう。このような考えでは自分以外の他者が害を被ろうとも意に介さず、自分の利益となる行為をただ行うこととなり、要請の無視は正当化されます。

 一方個人主義とは、共同体中心の選択を否定して、個人の意見の自由と尊重を慮る立場にあると言えます。倫理学の歴史における影響力の高い考えとして、ベンサムやミルに代表される功利主義、カントの義務論などが挙げられますが、これらの説はいずれも個人の自由・自律を尊重するという意味において、個人主義的であると言えます。

 功利主義のミルは自由が制約される条件として、①自らの自由な行為の結果を甘受できないとき、②他者に危害が及んでしまうときの2点をあげています。この点において利己主義とは明確に区別されると言えます。この観点からコロナについて考えてみると、①自らの自粛要請無視によって巻き起こされる緊急事態下の延長、あるいは家族や友人、恋人への感染リスク増大を甘受できない、②同様に家族や友人、恋人に対して危害が及んでしまう、との点から、このケースにおいて個人の自由は制約されるべきと導かれます。

 カント義務論では、定言命法という用語が有名です。「君は、〔君が行為に際して従うべき〕君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって〔その格律と〕同時に欲し得るような格律に従ってのみ行為せよ」(『道徳形而上学原論』篠田英雄訳)ようするに、普遍的に正しいこととなってほしいと思うような決まりごとにしたがって行為をしなさいということです。コロナを例に、より具体的に説明しましょう。「自分の欲求を充足するために、外出自粛要請を無視してもよい」という決まりが誰かのなかにあったとしましょう。この決まりが普遍化できるかを考えます。「外出自粛要請を無視する」という決まりを皆が採用した場合、誰もが外出をするようになり、その要請はもはや意味をなくします。そうなると行政側としてはより強力な措置、すなわち施設の営業禁止やイベント開催の禁止などを取らざるを得なくなるでしょう。その場合、結果的に人々は「自分の欲求を充足する」ことができなくなってしまいます。このような決まりは普遍化できないということになり、したがってこの決まりは正しくないということになります。カントの義務論では無条件に普遍的な決まりごとにしたがうことを自律と言い、個人が自律的に生きるという意味において個人主義的であると言えます。このような立場は、他者の利害を顧みない利己主義とは明確に峻別されるべきものであります。

 以上のように、個人の自由・自律を尊重する個人主義の立場からは、利己主義のような外出自粛要請を無視してまで個人の欲求充足を正当化する理論は導けないということが分かりました。しかし、これはあくまでも倫理学の話であり、倫理的に善い生き方というだけで、法律にそのようなこと書かれていないんだから好き勝手やらせろよという考えが人々の間で立ち上ってくることも自然なことのように思います。現代の法治国家の日本では、善い悪いは法律によって確定されます。その法の淵源となるものは倫理であるということは信じて疑いませんが、だからこそ倫理にしたがった適切な法が整備され、皆が納得のできる正義が見出されることを望んでいます。いずれにしても、法律が現状に追いついていない以上、何が正しいのかを考える手助けとして、哲学・倫理学を学ばれる人々が増えてくれることが、私としては一番喜ばしいことです。

 コロナに対する個人の考えは、真摯に答えようとしたあまり、2000字を超える長大な文章となってしまいました。


 今、コロナ禍で誹謗中傷が増えて、お互いがお互いを否定することが増えていると思います。若者には若者の事情があり、年配の方には年配の方の事情があり、その人、一人一人に事情があるのだと思いました。いろんなものを否定するのではなく、肯定することから始めて、その肯定を増やしていくことで、お互いに歩み寄った時にまたちょっと違うものが見えるのかなと思います。

その切っ掛けを横山町K様の投稿が与えてくれたのではないでしょうか。

 ASA八王子中央・西八王子 岡澤




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